――まるで、水底に沈んでいくような感覚だった。
意識が朦朧とする中、ぼんやりと光が見えた。まぶたを開けようとするが、まるで異物がこびりついたように重い。それでも、何とか目を開けると、そこには荘厳なシャンデリアと金色に縁取られた天井が広がっていた。
(……どこだ?)
確か、俺は剣道の試合中だったはずだ。幼馴染であり、ライバルでもある橘蒼真と最後の一太刀を交わした瞬間、視界が真っ白になった。そして――ここにいる。
「姫様、お目覚めになりましたか?」
低く響く声に、背筋が凍りつく。姫様? 何の冗談だ? ゆっくりと首を動かし、声の主を見る。そこには、黒いローブを纏った老人がいた。銀色の髪と深い皺が刻まれた顔が、まるで魔法使いのような風貌だ。
「……誰だ、お前」
喉から漏れた声は、驚くほど澄んでいた。違和感に気づき、慌てて自分の手を見た。指が細く、白く、まるで繊細なガラス細工のようだ。腕も華奢で、筋肉質だったはずの自分のものとはかけ離れている。
そして、違和感の正体を知る。
胸の重み。長く流れる銀色の髪。視界の隅に見える繊細なレースの装飾。
「――は?」
震える手でシーツを握り、身体を起こす。膝の上に広がるのは、ふわりと広がる純白のナイトドレス。その下にある自分の身体が、これまでのものとはまったく違う。
「な、何だこれ……!」
慌ててベッドから飛び降りようとするが、足元が覚束ず、転びそうになる。すぐさま老人――いや、魔法使いらしき男が支えた。
「姫様、落ち着いてください」
「俺は姫じゃねぇ! これは、何の冗談だ!?」
自分の声が甲高く響く。違う、こんなの俺じゃない。鏡、鏡が必要だ。視線を走らせると、部屋の隅に置かれた大きな姿見が目に入った。足元がおぼつかないまま、ふらふらと鏡の前に立つ。そして――息を呑んだ。
そこに映っていたのは、自分ではない。
腰まで流れる銀髪、鮮やかな紅い瞳、白磁のような肌。長い睫毛が影を落とし、驚いたように見開かれた瞳は、まるで宝石のように輝いていた。
美しい。そう、誰が見ても認めるほどの美少女が、そこにはいた。
「これが……俺?」
震える指で頬を触れる。柔らかく、繊細な肌。
「何をした……俺の身体は……」
「姫様、ご安心ください」
魔法使いは微笑み、ひざまずくように言った。
「あなた様こそ、滅びた王国の最後の血脈。アルザード王国の王女、レイシア様なのです」
「……は?」
冗談だろ? そんな現実、受け入れられるわけがない。だが、鏡の中の自分は、どう見ても男ではなかった。
――俺は、一体どうなってしまったんだ?
「……は?」
鏡に映る少女――いや、俺は、信じられないものを見るように、震える指先をそっと頬に這わせた。
肌は滑らかで、まるで陶器のような感触。柔らかく、どこまでも繊細なそれは、かつての自分のものとはまるで違っていた。
「こ、これは……どういうことだ……?」
掠れた声が、まるで別人のように耳に届く。甲高く、どこか甘やかな響きを帯びた声。間違いなく、俺のものではない。
「姫様、大丈夫でございますか?」
背後から響いた声に、俺は反射的に振り返った。その勢いで、長い銀髪がふわりと宙を舞う。その軽やかな動きにすら違和感を覚え、俺は思わず足をすくませた。
「待て、これは……何なんだ?!」
叫ぶと同時に、胸元の違和感がはっきりと意識にのぼる。膨らみ。重量感。鼓動を打つような確かな存在感。慌てて手を当てた途端、ぞわっと全身に鳥肌が立つ。
「……何だよ、これ……!」
間違いなく、俺は男だったはずだ。剣を握り、汗を流し、鍛え抜いた肉体を誇りにしていた。だが、今の俺は、どこからどう見ても――華奢な少女だった。
「落ち着いてください、姫様」
近づいてくる黒衣の老人、先ほどから「姫様」と呼ぶこの男は、何を言っているのか理解しているのか? 俺は姫などではない。
「俺は姫じゃねぇ! どうなってるんだよ!」
だが、老人は微笑を崩さず、まるで子どもを宥めるような優しい口調で言った。
「ですが、これは紛れもない事実。あなた様こそ、王国再興の希望――アルザード王国最後の王女、レイシア様なのです」
俺の頭にズキンと鈍い痛みが走る。嘘だ。こんなこと、あるはずがない。
「俺は……俺は、神崎蓮だ。剣道の試合をしていたんだ。なのに、何でこんな……っ!」
もう一度、鏡を覗き込む。そこに映る少女は、俺が動くたびに同じように動く。紅い瞳が揺れ、驚きに染まった表情が映し出される。
美しい。そんな言葉が、思わず脳裏をよぎった。
この少女は、まるで幻想の中の存在のようだった。透き通るような銀髪、白磁のような肌。驚きに揺れる睫毛の影が、頬をかすかに染める。どこからどう見ても――完璧なまでに美しい、異世界の姫。
「……冗談じゃねえ……」
ガタリと、俺はその場に座り込んだ。足元に広がる純白のナイトドレスがふわりと揺れる。その違和感すら、俺の混乱を深めていく。
「これは夢だ……そうだろ? だって、こんなの……」
「夢ではございません、姫様」
老人の声は静かで、けれど否応なく現実を突きつけてくるものだった。
「あなた様は、確かに異世界へ召喚されたのです。そして、あなた様の真の姿こそ、このレイシア・フォン・アルザード――王女なのです」
俺の真の姿? ふざけるな。
だが、鏡に映る少女の姿は、決して消えてはくれなかった。
「ふざけるな……俺が、王女だと?」
声が震えていたのは、怒りのせいか、それとも恐怖のせいか。俺は床に膝をついたまま、呆然と老人――いや、魔法使いを睨みつけた。
彼は穏やかに微笑んでいるが、その目にはどこか確信めいた光が宿っている。まるで、俺が王女であることが決定事項であるかのように。
「どうしても信じられませんか、姫様?」
「当たり前だ! 俺は男だった! 剣士だった! それが、目を覚ましたらこんな……!」
思わず胸元を掴む。だが、その手のひらに感じるのは、柔らかなふくらみ。やはり、これは夢でも錯覚でもない。
「落ち着いてください、姫様」
老人がゆっくりと歩み寄る。俺は反射的に後ずさるが、身体は今までのものとは違う。軽いのに力が出ない。足元がふらつき、バランスを崩しかける。
「……っ!」
すると、突然、背後から別の腕が伸びてきて、俺の身体をしっかりと支えた。
「大丈夫ですか、姫様?」
低く、穏やかな声。振り返ると、そこには長身の男が立っていた。鋼のような青い瞳と、整った顔立ち。銀の甲冑を身にまとい、背筋を伸ばしたその姿は、まさしく騎士のそれだった。
「……お前は?」
「私の名はユージン・クラウゼ。姫様の騎士として、命を捧げる者です」
騎士――俺の、騎士?
「待て、そんな覚えはねえぞ……」
「当然です。姫様は長い間、封印されておりましたから」
老人が再び口を開く。俺はぎこちなく立ち上がり、言葉を搾り出した。
「封印? 一体何の話だ」
「姫様は、アルザード王国最後の王族であり、この国の再興を担う希望の存在なのです。ゆえに、王国が滅びる際、王家の血を絶やさぬようにと、姫様の魂は封じられ、時が満ちるまで待機していたのです」
「待て、それじゃあ俺の記憶はどうなる?」
「おそらく、封印の影響で過去の記憶が混ざったのでしょう。本来の姫様の魂が、違う世界で『神崎蓮』という名の剣士として生きていた……そう考えれば、辻褄が合います」
「そんな……」
俺は愕然とした。神崎蓮として生きてきた俺が、ただの幻だった? そんなはずはない。だが、身体は紛れもなくこの世界のもので、男だったはずの俺は、今、少女の姿をしている。
「そんなの……認められるかよ」
だが、老人は冷静に続ける。
「認めるも何も、姫様はもう、この世界の運命から逃れることはできません」
「……どういう意味だ?」
「この国には、姫様の帰還を待つ者が大勢おります。そして、姫様の存在を快く思わぬ者も……」
老人の言葉が終わるより早く、扉の向こうで激しい足音が響いた。
「姫様の目覚めを聞きつけた者たちが、すでに動き出しています。城の中に潜む敵が、姫様を抹殺しようとしているのです」
俺の背筋が凍る。
「何だと……!?」
ユージンがすっと剣を抜いた。その刃は月光を浴びて静かに輝いている。
「姫様、今すぐお逃げください。ここに留まれば、命はありません」
「お、俺が狙われる……?」
状況が飲み込めない。ついさっきまで、俺は試合の最中だった。だというのに、今は王女になり、命まで狙われている? こんなの、どんな悪い冗談だ?
「ふざけるな……俺は、そんなの望んでねぇ!」
だが、そんな俺の叫びをかき消すように、扉が激しく開かれた。
――逃げられない。そう、本能が告げていた。