【投稿サンプル】『シロソラ』最終章/運営投稿

 学校を飛び出した僕は、その足で白堂家へと向かった。
 インターフォンを鳴らしたけれど、返事はない。木製の門が開く気配もない。
 留守だろうか。
 何度かスマホにかけたけれど、着信拒否をされたようだ。

 塀の向こう側から魔物の息遣いや足音が聞こえているから、すでに引っ越しを終えているということはないはずだ。
 外出しているなら、帰るまで待つだけだ。
 けれど一時間経っても二時間経っても、シロも文太郎氏も帰ってくることはなかった。
 勇み足で昼休みに抜け出してきたのに、結局もう放課後の時間だ。まあ、この時期の授業はあってないような自習や小テストばかりだからと、自分に言い聞かせる。

 ソラ「参考書くらいは持ってきたらよかったな……」
 文太郎「まったくだ。時間は有限だぞ」
 ソラ「うわっ!?」

 声のした方に視線を向けると、高い塀の向こう側から文太郎氏が顔だけを覗かせていた。

 ソラ「え? え?」

 どうやってあの高さから頭を出しているんだろう。魔物が間違っても逃走しないよう、白堂家を囲む塀の高さは刑務所並みなのだが。
 怖……。首とか伸びてそう……。

 文太郎「キミはしつこいねえ。何時間待っても、シロは出てこないよ。留守じゃなくて居留守だからね」

 文太郎氏がインターフォンを指さした。
 カメラつきだ。

 ソラ「あ……」
 文太郎「追い返してって言われたから私が出てきた」

 ズキっと胸が痛む。

 ソラ「シロはどうしてますか?」
 文太郎「勉強してるよ。キミの知らない高校の一般入試に向けてね。推薦入試は受けないそうだ。同じ学校には行かないってさ。フラれたね。ざまぁみろだ」
 ソラ「そう……ですか」
 文太郎「おや? うつむいたね。泣いてるのかい? イヒヒ、その泣きッ面、写真に撮ってあげようか?」

 僕は顔を上げた。

 ソラ「もう非常識な人の演技はしなくていいですよ。理由を知ってる僕には、大して意味はないでしょ」
 文太郎「はっはっは。キミに対する嫌がらせだけは演技じゃないからね。私の可愛いシロに不用意に近づいて、あまつさえ泣かせた。青野空、キミは非常に不愉快な存在だ」

 文太郎氏の声が低く落ちる。

 文太郎「で、何をしにきたのかね。もはや何もかもが手遅れだ。償う言葉は世界のどこにもない。シロは誰のどんな声にも耳を貸さないだろう。特にキミの声にはだ。吐いてしまった言葉は戻らない。もはや過去は変えられない事実となった」

 どうやら僕は、世界で一番嫌いな人間にされてしまったようだ。
 けれど謝罪をしにきたわけじゃない。懺悔するためにきたわけでもない。突き進むためにきた。

 ソラ「シロに用はありません。言葉を取り戻したり謝ったりするためにここまできたわけじゃない。文太郎さん、あなたに用があったからきたんです」
 文太郎「私に? シロへの説得なら無意味だと言っておくよ」
 ソラ「それも不要です」
 文太郎「それじゃ何しにきたんだい?」

 僕は直球ストレートを投げる。

 ソラ「白堂彩名さんは、いま、どこに住んでいるんですか?」

 文太郎氏は一瞬唖然として、でも次の瞬間にはもう憮然とした表情で、ため息交じりに吐き捨てた。

 文太郎「………………何を言っているのかね。キミはこの期に及んでまだ、我が家の事情に首を突っ込もうとでも?」
 ソラ「ええ。場所がわかれば会いに行きます。行って、なぜ彩名さんが白堂家から姿を消したのかを尋ねます」

 文太郎氏が苦虫をかみつぶしたような顔をする。

 文太郎「…………とことんまで、悪趣味だな」
 ソラ「もしその結末が、あなたやシロが考える通りのものであったならば、僕はそのまま姿を消します。あなたの望む通り、シロの前にはもう二度と姿を見せない」

 彩名さんがシロを愛せなくなったのであれば、この話はそれでおしまいだ。

 文太郎「他にどんな理由が考えられるというのかね。別居当時、私はまだマッドサイエンティスト“ごっこ”なんてしていなかったよ」
 ソラ「それは……わかりません」

 少なくとも、いまの僕には思いつかない。でも、何かあるかもしれない。
 文太郎氏が重いため息をつく。

 文太郎「それを調べることで、シロはまた傷つく」
 ソラ「シロには僕が動いていることは言わないでください。さっきも言いましたが、結末があなた方の考える通りだった場合、僕はもう二度とシロの前には姿を現さない」

 頭を直角に下げる。

 ソラ「お願いします。これが最後です。僕はもう、シロを傷つけない。どうか、どうかお願いします。彩名さんの居場所を教えてください」

 知らない。そう言われたら終わりだ。
 わかってる。僕はまだ子供で、お金だって持ってない。探偵や興信所には頼れないし、人捜しの知識なんて皆無だ。でも、僕がシロのために何かをしてあげられる最後のチャンスが、まさにいまなんだ。
 真崎に背中を押され、進むと決めた。
 嫌われてもいい。シロに謝罪はしない。行動に後悔もしないと決めた。たとえシロと僕の間に埋めようのない亀裂が入ったとしても。

 しばらく待った。だがこたえはない。文太郎氏は本当に知らないのかもしれない。もしもそうだったら、あきらめるしかない。
 頭を下げたまま、ひたすら待つ。
 やがて文太郎氏は、絞り出すような声で語り始めた。

 文太郎「……あの日、シロが事故に遭った日は、彼女の誕生日だった。五つか、いや、六つだったか。いずれにせよ、交通ルールもまだろくに知らん幼児だ。誕生会の準備をしながら妻を待っていた私は、シロから目を離してしまった。そしてシロはひとりで外に出て、事故に遭ったんだ」

 僕は顔を上げる。
 塀の上から頭だけを出していた文太郎氏が、今度は顔を伏せていた。

 文太郎「油断していた私が悪い。シロから目を離してしまった私が悪かった。だから妻は私に愛想を尽かした。なあ、もうシナリオはそれでいいだろう? それじゃあダメなのかい? 娘を愛せなくなったからとか、そういうのはもう、私は……」

 文太郎氏の声は、震えていた。
 それは白堂文太郎の懺悔だったのだと思う。

 ソラ「僕は、白堂家の全員を救いたい。だから、お願いします」

 けれども文太郎氏は静かに頭を引っ込めると、何も言わずに館へと去ってしまった。
 長期戦になる。そう思い、僕はコートの襟を立てて門前に座る。日は暮れ始め、凍った息が白い雲のように広がった。
 そうして、しばらく。一時間ほど経過し、あたりが暗くなる頃。
 カチャンと、施錠の外れる音がした。
 振り返ると、文太郎氏が通用門から出てくる。

 文太郎「風邪を引く。もう帰りなさい」
 ソラ「まだ返事を伺っていません」
 文太郎「返事はしたよ。キミが受け取らなかっただけだ」
 ソラ「……」
 文太郎「だが、これなら受け取ってくれるかね?」

 文太郎氏が懐から一枚の紙切れを取り出し、僕に差し出した。
 住所が書かれている。ふたつほど県を跨いだところだ。かなり遠い。

 文太郎「彩名には、もう何年も前から連絡を取っていない。もしかしたら、すでにここにはいないかもしれない。だが、籍は入れたままになっているようだ。一応、私の方から緑の紙は送ったんだがね。彼女には自由になってほしかったから」

 そこまで言ってから、文太郎氏が自嘲する。

 文太郎「いや、違うな。ただ単に私が楽になりたかったからだ。負い目を感じたくはなかった」
 ソラ「……あ……りがとう、ございます……」

 僕は住所の書かれた紙を受け取って丁寧に折りたたみ、コートのポケットへと入れた。

 ソラ「明日、会いに行きます」
 文太郎「やれやれ。他人の一家のために、自ら嫌われ役を買って出るだなどと。キミの優しさは、本当に容赦がないな。まるで暴力だ。優しさという名の棒キレで、おもいっきりぶん殴られてる気分だよ。いじめられていたシロのことも、そうやって助けたんだろうね」

 僕は文太郎氏に頭を下げて背中を向けた。
 立ち去る間際、背後から再び声がかかる。

 文太郎「明日だ」
 ソラ「……?」
 文太郎「八年前の明日が、忌まわしい事故の日だ。また誕生日を祝えるようになりたいと、ずっと思っていた」

 僕はうなずいて、どうでもいいことを尋ねた。

 ソラ「そうだ、文太郎さん。さっき、どうやって塀の向こう側から頭を出してたんですか? 身長だけじゃ、とても足りないですよね? 庭には足場になりそうなものもなかったですし」
 文太郎「ん? ああ、魔物の肩に乗せてもらっていたんだ。やつらは私の言うことは聞くからね。それがどうかしたかね?」
 ソラ「いえ、ちょっと気になっただけです。ふふ、想像すると笑えますね」
 文太郎「……ハハ、そうだね」

 互いに少し笑って、その日は帰宅した。
 自室に戻って貯金箱をひっくり返し、住所の書かれた紙切れとともに財布に詰め込む。鈍行列車を乗り継げば、往復しても十分に足りる金額だ。
 今夜は早めに就寝した。



 金曜日。鈍行列車を乗り継いで、僕は文太郎氏からもらった紙切れの住所へと向かった。張り切って最寄り駅の始発に乗ったものの、県を跨いでようやく目的の駅に到着した頃にはもう昼過ぎになっていた。

 片道四時間弱と考えると、あまり遅くなるわけにはいかない。終電までに戻れなければ、野宿をすることになる。ネットカフェでもあるならともかく、さすがに宿を取るお金はないのだから。
 いずれにせよ、学校をサボったことが親にバレるのは時間の問題だ。警察沙汰にはならないよう、夜には戻る旨を記した置き手紙を自室の机に置いてはきたけれど、帰ったら大目玉は免れそうにない。
 最近は成績が上がってきたことで、色々と見逃してくれるようにはなったけれど。
 そんなことを考えながら、駅そばで腹ごしらえをする。

 改札を出る際、駅員さんに紙切れの住所を見せて、観光用の地図をもらった。目的の住所付近も、赤丸で囲ってもらった。
 もちろん観光用の地図に個人名が記されているわけがないから、そこから先は自力で調べる必要が出てくる。
 交番は頼れない。僕はいままさに、学校サボってるからね。制服こそコートで隠しているけれど、補導されたりなんかしたら受験どころじゃなくなってしまう。
 だから交差点名や電柱に記されている番地、自治体の用意した地図看板なんかを頼りに歩くしかない。幸いにも彩名さんは一軒家ではなく、アパートだかマンションだかに住んでるようで、比較的捜しやすそうなのが救いだ。

 ソラ「ん~……?」

 一時間ほど見知らぬ街を彷徨い歩いて、僕はようやく紙切れに記されていたグリーンガーデンという名のマンションを発見した。
 やや古びた印象がある佇まいだ。幸いにもオートロックではなく、簡単に中に入ることができた。

 ソラ「部屋番号は……」

 404。昔のインターネットのエラーを想起させて不吉な数字だ。ここまできて、すでに引っ越し済みでした、は勘弁願いたい。
 けれどもそんな考えは杞憂で、エレベータを四階で降りてすぐに白堂という表札の掲げられた部屋は見つかった。

 髪に手櫛を入れて、ごくりと喉を鳴らす。
 緊張してきた。そもそもどう説明をすべきなのか。尋ねてきたのがまったくの他人で、しかも家庭の事情に無遠慮に踏み込んでくるのだから、怒鳴られて追い返されるのではないか。あるいは警察を呼ばれたりする可能性も。
 そこまで考えて、頭を振る。

 ソラ「ここまできて!」

 どのみち引き返すという選択肢はない。遅かれ早かれ、やるしかないんだ。
 僕はインターフォンを鳴らす。
 緊張して待ったけれど、返事も、出てくる様子もない。それどころか、室内で誰かが動いた気配さえなかった。

 ソラ「留守か」

 ああ、そりゃそうか。
 ど平日の真っ昼間だ。家族と暮らしている専業主婦ならともかく、ひとり暮らしをしている大人が家になんているわけがないんだ。

 ソラ「まいったな……」

 だとすると、帰ってくるのは仕事を終えてからということになる。そんな時間まで待っていたら、今日中に帰ることができなくなってしまう。
 仕方ない。腹を括るとするか。終電に間に合いそうにない場合は、こっちから家に連絡しよう。叱られるだろうけど、それだって遅かれ早かれだ。
 途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲み、喉を潤す。
 マンションの四階から眺める街並みは、僕らが住む紅葉ヶ丘よりも少しだけ騒がしい。車通りは多いし、離れた場所には大きな商業施設が見える。商店街ではなく、大型店舗だ。大学らしき学校だってある。
 見上げた空はそんなに変わらないけれど。

 僕は持ってきたリュックから、参考書を取り出す。
 もうシロと一緒には高校生活を送れないだろうけれど、これまで頑張ってきたんだ。無駄にはしたくないからね。
 繰り返し読む。大体のことはもう覚えている。頭の中で文章が、シロの声で再生されるんだ。そうなってしまうくらい、シロは丁寧に教えてくれた。
 嬉しかった。だから頑張れた。

 参考書に集中する。疲れたら壁を背にして座り、冷えてきたらまた立ち上がる。
 時折、404号室の前を他の部屋の住人が通り過ぎた。こっちを見て、怪訝な表情をしながらだ。僕は怪しまれないように、あえて会釈をする。まあ、そんなことをしなくても、参考書を持った泥棒なんているわけがないんだけれど。

 もう空は薄暗くなり始めている。
 足音がして、またひとり、通り過ぎる。誰かが通るたびに期待してしまうけれど、404号室では立ち止まらない。ため息が出てしまう。
 その中年女性は405号室のドアに鍵を挿した。

 ソラ「あ、あの……すみません」
 ???「はい?」
 ソラ「えっと、404号室の白堂さんって、いつも何時くらいにお帰りになられているかご存じでしょうか」
 ???「さあ? あぁ、でも、音がするのは大体いつも夕方くらいかねえ? あなたはどちら様?」
 ソラ「あ、僕。白堂さんのお子さんの友人で、青野空って言います。えっと、白堂さんのお子さんの名前はシロっていうんですけど、そのシロさんのことでお話があって」
 ???「へえ、白堂さんって結婚してたんだ。知らなかったな。ほら、あの人、あまり誰とも話さないから。挨拶とかは返してくれるんだけど、内向的なのかもしれないわね。それとも学者先生ってのは、やっぱり変わり者が多いのかしら」

 学者先生。彩名さんも、文太郎氏と同じ研究者だったんだろうか。もう少し詳しく文太郎氏に尋ねておけばよかった。写真でもあればと、いまさらながらに悔いる。

 ソラ「おとなしい方なんですね」

 シロもどちらかと言うと人見知りだ。
 なんとなく想像がつく。

 ???「そうね。ま、あと一時間もすれば帰ってくるんじゃないかしら」
 ソラ「そうですか。もう少しここで待ってみます」
 ???「それじゃあね。寒いから風邪引かないようにね」
 ソラ「ありがとうございます」

 僕が頭を下げると、おばさんは自分の部屋に入っていった。
 また参考書に目を落とす。
 そうして、しばらく──。

 聞こえてきた足音に、僕は視線を上げた。
 長い黒髪の女性が、僕を見ながら近づいてくる。痩せて疲れているように見えるけれど、僕ら世代の親にしては若い。たぶん違う人だ。
 会釈をすると、同じように会釈で返してくれた。
 ところが彼女は通り過ぎるかと思いきや立ち止まり、404号室のドアに鍵を入れた。
 この人だ!

 ソラ「あ……」
 彩名「……?」
 ソラ「あの、白堂……彩名さん……ですか?」
 彩名「……はい」

 女性がうなずいた。

 ソラ「えっと……」

 どう言おう。何から話せばいい。
 落ち着け。腹は括ったはずだ。最初から全部話すんだ。

 彩名「わたしに何か……?」
 ソラ「あの、僕、青野空と言います。今日はちょっとシロさんのことで、あなたに聞きたいことがあって──」

 彩名さんが大きく目を見開く。

 彩名「シロに、あの子に何かあったんですか!?」
 ソラ「あ……」

 その剣幕を見て、その様子を見て、僕は──。

 彩名「え、ちょっと……!」

 安堵のあまり、膝から力が抜けてぺたりと座り込んでしまった。
 大丈夫だ。うん。大丈夫。
 だって愛せなくなった子に対して、あんな顔はしないのだから。その瞬間に彩名さんが見せたのは、大切な子が心配で心配で仕方がないといった表情だったから。
 白堂彩名は、いまでもシロをちゃんと愛している。たぶん。

 ソラ「す、すみません。なんか安心したら、力が抜けちゃって。シロは健康です。いまは事情があって元気がないけど、でも……」

 うまく言葉が出てこない。
 とにかく何かを伝えなければと必死だった。

 彩名「そう、なんですね。青野くんが、シロのお友達なら、少し上がって休んでいって。あの子のお話を聞かせてほしいから。立てる?」
 ソラ「はい。すみません」

 のろのろと立ち上がると、彩名さんはドアを開けて僕を招き入れてくれた。
 1DKの、決して広いとは言えない部屋だけれど、綺麗に片付けられている。座卓のある和室には、文太郎氏と彩名さん、そして赤ん坊の頃のシロが写った小さな写真が飾られていた。
 僕はそこで温かいお茶をもらいながら、彩名さんと色々な話をした。
 当初は僕のことを娘の友人としてしか見ていなかった彼女だったけれど、僕の話が進むにつれて、その表情が強ばっていくのが見て取れた。
 すべてを話したんだ。彩名さんが、猫になったシロを置いて去ったあとのことを。

 事故の怪我が原因だったイジメから彼女を助け、友人になったこと。
 けれどすぐに引っ越してしまったこと。
 中学生になって再会できたこと。
 シロと付き合うことになったこと。
 文太郎氏がシロを守るためについていた嘘のこと。
 そして、シロが彩名さんに捨てられたと思い込み、とても悲しんでいること。
 僕がそのことでシロを傷つけて泣かせてしまい、絶交されてしまったことも。
 包み隠さず、すべて。

 僕の知っている白堂シロのすべてを、彩名さんに話した。途中から彩名さんは涙を流して嗚咽し始めたけれど、僕は話すことをやめなかった。
 苛立っていたから。怒りをぶつけるように、けれども努めて穏やかに話した。
 そうして、最後に尋ねる。

 ソラ「あなたはどうして、シロを置いて去ってしまったんですか?」

 白堂彩名は両手で顔を覆い、悔いるように泣きながら僕に話してくれた。
 あの事故の日に隠されていた、文太郎氏もシロも未だ知らない真実を。それはまるでパズルのピースのように、あの悲劇を作り上げる原因のひとつになってしまっていたんだ。
 伝えなければならない。いまも彩名さんの帰りを待つ、あの親子に。
 その日の夜、白堂彩名は自家用車に僕を乗せて、高速道路を使って紅葉ヶ丘にある白堂家へと走ってくれた。



 明朝、僕は白堂彩名とともに、白堂家に到着した。車は近くの有料駐車場に停めて、白堂家のインターフォンを押す。
 通用門から出てきた文太郎氏は、彩名さんを一目見るなり言葉を失った。彩名さんは文太郎氏に頭を下げた体勢で、静かに呟く。

 彩名「ご無沙汰しております」
 文太郎「…………驚いたね……。……まさか本当に連れてきてくれるとは……」

 文太郎氏が僕を見る。僕はうなずいた。

 彩名「シロに会いにきました」
 文太郎「うん。入って」

 文太郎氏が通用門に招き入れたのを見て、僕は踵を返した。ここから先は家族の時間だ。もう僕がいなくても大丈夫。
 そう、大丈夫なんだ。僕は先に彩名さんから話を聞いたから、一足先に確信を持てた。
 せっかくの再会を邪魔したくはない。
 なのに。

 文太郎「君もだ。ここまで他人の家庭を引っ掻き回しといて、いまさら帰るはないだろう。上がっていきなさい」

 正直、かなり疲れていた。
 昨日の朝から一睡もしないまま、今朝を迎えてしまったのだから。でも、だからと言って帰ったとしても、心穏やかには休めそうにない。たとえ結末を知っていたとしても、やっぱり気になる。
 僕はうなずき、彩名さんに続いて通用門をくぐり抜けた。

 ソラ「……?」

 やけに静かだ。

 文太郎「ああ、気づいたかね? 我が家のペットたちなら、もういないよ。昨日、一足先に引っ越し先に送ってしまった」
 ソラ「ペットって……」

 あの、隙あらば人間を襲おうとする魔物たちを。

 彩名「文太郎、ペットを飼ったの?」
 文太郎「あ、え~っと、まあ、うん。ちょっとね。ほら、シロちゃんが寂しがるかなぁって思ったから」

 すごい言い訳してる。
 けれど、やはり引っ越しの準備は着々と進めているようだ。もうすぐ別れがくるのだと、否応なしに認めざるを得ない。
 それでもやっぱり、寂しいと思ってしまうんだ。僕はシロが大好きだから。

 彩名「あいかわらず、あなたはあの子には優しいんですね」
 文太郎「私は誰にでも優しいよ」
 ソラ「……僕以外には……」

 文太郎氏は僕のぼやきを聞かなかったふりで、彩名さんと話していた。
 仲がよさそうに見える。ペットが魔物であることまでは言ってなさそうだけれど、肩を並べてにこやかに歩くふたりは、お似合いだ。
 でも、確かに、まるで熱帯雨林のように鬱蒼と木々の茂る大庭園にはもう、魔物の気配はなかった。静かなものだ。
 落ち着いて眺めると、とても綺麗な自然環境に見える。朝陽の木漏れ日が心地よく、人工の小川はキラキラと輝いていて、優しい風が葉擦れの音を生んでいる。
 ……いや、金持ちだな!
 いまはモンスターを生み出すだけのマッドサイエンティストだけれど、元々はどれだけ優秀な学者だったんだろう。

 館に入り、リビングへと通された。
 彩名さんをソファに座らせてから、文太郎氏が僕を振り返る。

 文太郎「すまないが、キミは少し隠れていてくれるかい。話し合いを始める前に、シロをあまり興奮させたくないからね」
 ソラ「わかりました。廊下にいます」
 彩名「ごめんなさいね、青野くん」
 文太郎「私はシロを呼んでくる」

 僕はうなずいてリビングから退室し、廊下の柱の陰に身を隠した。しばらくすると足音が聞こえてきて、シロと文太郎氏がやってくる。
 久しぶりのシロは、少し憔悴しているように見えた。
 シロがリビングの入り口で目を見開いて立ち止まった。彩名さんを見つけたようだ。けれどもシロは喜びを表すどころか、不安そうな顔で硬直してしまった。

 シロ「お……母さ……」

 本当ならすぐにでも泣いて抱きつきたかったはずなのに、彼女はただその場で動けなくなってしまったんだ。
 愛していても愛されていないと、そう思い込んでいるから。結論から言ってそれは誤解だと、僕だけがもう知っている。

 文太郎「シロ、入りなさい」

 文太郎氏がシロの背後から優しく肩を押す。
 シロがよろけるように、リビングへと入っていった。文太郎氏が僕に視線を向けてうなずき、そしてリビングへと入った。
 ドアは閉ざされない。開けっ放しにしてくれたのは、見届け役としての僕への配慮なのだろう。

 彩名「……シロ……。……元気だった……?」
 シロ「う……ん……」

 シロが鼻にかかったような声を出す。泣いてしまっているようだ。なぜか僕まで胸が締め付けられるような思いだ。
 少しの沈黙。シロがどんな顔をしているのか、僕からは見えない。
 程なくして、彩名さんが話を切り出す。

 彩名「今日はね、ふたりにあの事故のことで話があってきたの」
 シロ「ご、めんなさい……ごめんな……さい……。わたし、が、あんな事故に、遭ってしまった……からっ、お母さん……が……っ」

 言葉を絞り出すようにそう言うと、シロは大きな声で鳴き出した。

 文太郎「……それは違う。おまえはまだ幼かった。交通ルールもろくに知らなかった年齢のおまえから、私が目を離してしまったからだ。面と向かっては言っていなかったね。すまない、シロ」
 彩名「いいえ。それも違うわ。ねえ、シロ。事故に遭ったとき、あなた、お母さんの傘を手に持ってたわよね」

 僕は廊下に腰を下ろして、目を伏せた。

 彩名「約束の時間になっても帰ってこなかったわたしを、駅まで傘を持って迎えにきてくれたのでしょう?」
 シロ「……っ」

 雨が降っていたんだ。八年前の今日。シロの六つの誕生会の日、雨が、降っていた。
 今日は早めに家に帰るから、朝にそう言って仕事へと出かけた彩名さんは、けれども当時勤めていた研究所の小さなトラブルによって、その時間が大きく引き延ばされた。
 小さなシロは母親を驚かせようと、父親である文太郎氏に目を盗み、ひとりで傘を持って駅まで迎えに行き、そして事故に遭ってしまったんだ。

 雨が降っていなかったら。
 研究所がトラブルを起こさなければ。

 シロが父親の目を盗んで勝手に外に出なければ。
 文太郎氏がシロから一時も目を離さなければ。
 彩名さんが約束の時間を守れていれば。

 何かひとつでも、たったひとつでも変わっていたら、起こらなかった事故だったんだ……。
 そして、三人ともが、自分を責めた。

 ひとりで外に出てはいけないよ、と口酸っぱく言われていたシロ。
 幼いシロから目を離し、準備に没頭してしまった文太郎氏。
 職場の小さなトラブルを優先してしまい、娘との約束を破った彩名さん。

 結果として彩名さんは罪の意識に耐えきれずに姿を消し、その理由を、自身が猫の怪物になってしまったからだとシロは勘違いし、それを鋭敏に感じ取った文太郎氏はシロの思い込みを払拭するためにマッドサイエンティストという演技を始めた。

 気づけば三人ともが、堰を切ったように泣いていた。
 再会を喜び合っていた。素直になっていた。罪も、幸福も、分け合って背負い合うことができる。家族だから。

 ソラ「……」

 僕はゆっくりと立ち上がる。
 これで見届け役は終了だ。真崎の言った通りだった。過程はシロから絶交されるという最悪なものになってしまったけれど、それでも、結末まで強引にでも突き進んでよかったと、いまなら胸を張って言い切れる。

 白堂家は、きっと、やり直せる。
 少なくともシロは幸せになれた。
 だから。いいじゃないか、これで。

 ソラ「……元気でね、シロ……」

 囁き、僕は歩き出した。
 もちろんリビングにではなく、長い廊下を、外へと向けてだ。幸いもう魔物はいないからね。ひとりで出ていくことだって簡単だ。
 寂しさはある。けれど。でも。

 立ち去り際にドアの隙間から見えた光景は、シロが彩名さんにすがりついて幼児のように泣きじゃくり、そんなふたりを文太郎氏が包み込むように抱きしめているところだった。

 これでよかったのだと、僕は考えることにした。
 精一杯やった。やり遂げた。望んだとおりになった。満足だ。
 ……なのに、頬を伝う涙は感涙ではなく、寂しさが原因だったように思う。
 僕らの再会物語は、これで終わりだ。



 ネオンに彩られた商店街を歩く。ポケットに手を突っ込んで。色々あったから忘れていたけれど、今日はクリスマスイブだ。
 この時間に街行く人たちは、ほとんどがカップルだ。あるいはバイト中の若いサンタクロースたちか、家路を急ぐサラリーマンか。
 もう夜だけれど、商店街のスピーカーからは陽気なクリスマスミュージックが大音量で流れていた。いまの気分じゃ、何も耳に残らないけれどね。

 家に帰る気にもなれず、さりとていつものベンチはイチャつくカップルに占拠されている。店はまだ開いているけれど、待ち時間を考えると入る気にもなれない。
 このベンチで、鳩に襲われていたシロを思い出す。でもいまは笑えない。
 すれ違う人たちは、とても楽しそうだ。なんだか街をひとりで歩いているのが自分だけのような気がして、結局帰ることにした。
 寒いしね。雪も降らないのにさ。

 いつになく人通りの多い商店街を、歩いて進む。ケーキでも買って帰ろうかと思ったけれど、旅費のおかげであまり余裕はない。残りを遣ってしまったら、冬休みまで残り数日、学校でひもじい思いをしそうだ。
 まあ、彩名さんが車を出してくれなければ、昼食代もおじゃんだったけどさ。

 置き手紙を残してきたとはいえ、父や母になんと言って謝ろうか。きっと大目玉だ。スマホの電源もずっと切りっぱなしだったから。
 そうだ。とりあえずいまから帰ることだけでも伝えておこう。

 僕はスマホをタップする。
 コールが鳴った瞬間に繋がった。

 ソラ「あ、母さん? ……うわっ!?」

 スピーカー設定にしてもいないのに耳をつんざくような大音量の怒声に、思わずスマホを離す。やはりかなり心配させてしまっていたようだ。

 ソラ「ごめんごめん。でもちゃんと書き置きしてきたでしょ。……うん、うん。わかってるよ。事情はあとで話す」

 話したくない。声に出したら、また泣いてしまいそうだ。
 真崎の家で遊んでたことにしようかと思ったけれど、母は真っ先に真崎に連絡をしたらしい。うちの子知らないかって。
 場所は知らないけど、あいつが書き置き残してんなら大丈夫っすよ、としか言われたかったようだ。
 真崎のやつ、ほんと適当だな。焚きつけておいて。
 でもまあ、今回は感謝だ。

 ソラ「うん。じゃあね。あ、ケーキ買った? ないから買って帰るけど、費用はできれば立て替えという形にしていただけますと非常に助かりますが……。わかった。じゃあ買って帰るね」

 どうやら僕が突然消えたことで、我が家ではクリスマスどころじゃなかったようだ。ケーキどころか夕食の準備さえしていなかったそうだ。そっちは母に任せるとして。
 ありがたいね、家族って。少し話しただけなのに、じんわりと胸があたたかい。少し気が紛れた。
 通話を終えて、スマホをポケットにねじ込む。

 ???「話は終わりマシタカー?」
 ソラ「~~ッ!?」

 弾かれたように飛び上がって、僕は振り返った。
 真っ白なコートに身を包んだシロが、息を荒げながら両膝に手をついていた。どうやら走って追いかけてきてきてくれたようだ。

 シロ「そ、んなに、驚かなくても」
 ソラ「だって……」

 ああ、シロだ。シロがいる。以前のように僕に話しかけてくれている。それだけでもう、こみ上げてくる。

 シロは凍った息を整えながら、曲げていた腰を伸ばす。
 両手を下腹部のあたりで組んで、あらためて、頭を下げて。真っ白な髪が、さらりと流れた。

 シロ「これからは、お母さんも一緒に暮らすことになったの。家族みんなでやり直せることになったよ」

 ぽた、ぽた。
 シロの足下、アスファルトに涙の雫が落ちる。

 シロ「お父さんから、ソラがしてくれたことを聞いた。いますぐに追いかけなさいって、お母さんに怒られた」
 ソラ「そっか……。顔、上げて……。みんな見てる……」

 何事かと、商店街を行くカップルたちが、僕らに視線を向けている。けれども立ち止まることはなく、ただ通り過ぎるだけだ。
 シロはぐちゃぐちゃの顔で泣いていた。
 僕はシロの手をつかんで歩き、商店街の外れまでやってくる。ここなら人目を気にしないでいられる。

 シロ「ごめんね……ごめんね……ソラ……」

 僕はシロの背中をそっと撫でる。

 ソラ「謝らなくていいよ。怒ってないから。腹が立ったのは自分自身にだけなんだ。無遠慮に踏み込んで、シロの心を傷つけたから」
 シロ「そんなのもう──!」
 ソラ「うん。後悔はしないことにした。だからさらに踏み込んだ」

 真崎のおかげだ。
 あそこで退いていたら、いまの僕らは、なかっただろう。僕はただ最低な人間で終わっていて、シロは心に傷を負ったまま生きてくしかなかった。

 ソラ「いまは心から、それでよかったと思ってるよ」
 シロ「うん……うん……。ソラが正しかった……。ソラが幸せをくれたの……。小さな頃に信じてた、サンタクロースみたいに……」

 僕らは身を寄せ合って、話をした。
 色々な話をした。これまでのことと、これからのことも。

 もう白堂家の引っ越しは、中止できないものになってしまっているらしい。あの魔物たちが生きられる規模の土地を取引し、すでに家財の半分とともに送ってしまった。現在の白堂家は買い手こそまだついていないものの、すでに不動産屋に委託して売りに出してしまっている。それをやり直すだけの財力は、いまの文太郎氏にはもうないそうだ。

 引っ越し先は同じ地方だけれど、他県だ。遠くはないけど簡単には逢えない。
 シロにこの街に残ってひとり暮らしをしてほしいだなんてこと、僕には言えない。だって何年も待って、ようやく家族で暮らせることになったんだから。
 僕はまだ子供で、この流れを止めるためのどんな力も持っていない。それがわかってた。だから黙って消えることにしたんだ。
 再会の物語は、僕が失言をした時点でとっくに終わってたんだ。
 でも。でもね。
 シロは顔を輝かせて言った。

 シロ「高校、一緒に行こうね。わたし、推薦入試で絶対に合格するから。一足先に行って待ってる。ソラは一般入試で絶対に入ってきて」
 ソラ「…………あ、そっか……。はは、そうだよね。うん。わかった」

 そうだった。僕らはもうすぐ新生活を始めるんだ。そこでまた再会すればいい。二度目の再会だ。住む地域が変わっても、学校が同じなら。

 また、始められる。

 それから少し話して、それぞれの家族の元に帰ろうってなったとき。
 手を振って僕が向けた背中に、同じく手を振って背中を向けたはずのシロが、突然体当たりでもするかのように抱きついてきた。

 ソラ「わっ!?」

 衝撃につんのめり、僕はよろける。

 ソラ「え、え、シロ? どうしたの?」

 シロが僕の背中に顔を埋めて、小さく囁いた。

 シロ「……すき。だいすき……」
 ソラ「へっ!?」
 シロ「すき。すきなの。あふれちゃう」

 ぎゅうっと、腕に力が込められる。

 ソラ「ぁ、ぇ、……あ、ぼ、僕ももももちろん──」
 シロ「いいの。いわなくて。そんなのもうどうでもいいくらい、すき。ソラにきらわれても、だいすき」

 ど、ど、どうしよう。
 こういう場合、振り向いて正面から抱きしめるのが男らしい男というものだろうか。そんなことを考えた瞬間、シロがパッと離れた。
 真っ赤な顔で目線を逸らせて。

 シロ「ま、またね、ソラ! 明日、が、学校でね!」
 ソラ「あ、うん」

 そう言って、赤面した最高の笑顔を見せて、走って帰っていった。
 しばらく呆然と立ち尽くしたあと、僕は笑って歩き出す。
 今日はまた、勉強が手につきそうにない。

 ──でも、明日からは頑張れそうだ。

 ちなみにケーキを買い忘れて帰った僕は、結局、母からの大目玉を食らったのだった。

ーendー