【投稿サンプル】『シロソラ』第4章/運営投稿
montageorangeSTAFF
12月上旬。遠目に見える山々で色づいていた草木はすっかりと枯れ、降り積もる落葉になった。寒風が吹き荒び、冬の足音が本格的に聞こえ初めてくる頃。
僕らは変わらず、そろって下校していた。
真崎「最近どうよ。ちゃんとやってるか?」
ソラ「うん。ぼちぼちかな。シロが助けてくれてる」
シロ「ソラも合格させなきゃだからね」
真崎はスポーツ推薦で、すでに進む高校が決定しているようなものだ。シロも模試の判定はAだから、推薦入試でほぼ確定だ。進路が危ういのは学力の低い僕だけ。
正直、少し焦ってしまう。
シロ「じゃーねー、マサキチ」
ソラ「また明日ね」
真崎「おー。じゃ~な~。勉強頑張れよ、ソラ」
いつもの交差点で真崎に手を振りながら別れを告げて、僕とシロは並んで歩く。
シロは猫みたいに寒さに弱いから、もう巻いたマフラーに首を埋めていた。もちろん、コートに手袋も完備だけれど、いまからこれじゃあ、真冬になったらどうするんだろうと思ってしまう。
家から出てこなくなったりして。こたつの中で丸くなって。
シロ「うひぃぃ。風よけがなくなったから寒ぅ~い」
ソラ「もう冬だからね」
どうやらさっきまでは、身体の大きな真崎を風よけに使っていたようだ。道理で横並びではなく、真崎の背後を歩いていると思ったよ。真崎は元バスケ部だから、身体が大きいんだ。
ちなみに僕は男子ではかなり小さい方で、シロとほとんど同じくらいの体格だから、風よけにはなれない。
冬の風になびく白い髪をマフラーの中にねじ込みながら、シロが尋ねてきた。
シロ「勉強進んでる?」
ソラ「うん。模試の志望校判定は悪くなかったよ。おかげさまでね」
シロ「どんくらい?」
ソラ「B+。初めて取れた」
シロ「へへ~。んじゃ、来年もまたこうして一緒だね」
だったらいいな。シロとなら、来年からの高校生活も楽しくなりそうだ。
ソラ「そうだね。…………僕が受かれば、ね……」
シロ「ちょっとぉ!? 判定B+だったんでしょ!」
ソラ「奇跡的にね」
シロ「ネガティブ!」
来月の今頃はもう本命高校の受験日だ。白堂家でヒトゲノムを定期的に提供する傍ら、シロに勉強を見てもらっていたおかげで、成績はかなり上げられた。
あとは緊張せずに普段の力を出し切れるかだ。正直言って、あまり自信がない。
だって僕には、試験という名のもので成功体験がほとんどないのだから。学力が上がっていたとしても、本番でうまくやれるかどうかは別だ。当日になって頭が真っ白になっちゃったとか、目も当てられない。
シロ「う~。だとしたら、今日からは試験方式だなあ。覚悟しといてね。意識してなくても解法が出てくるくらい、みっちり頭に叩き込むから」
ソラ「厳しめでお願いします」
シロ「ん! ま~かせて」
今日は週に二度、白堂家に寄る日だ。ゲノムの提供と、学力の供給を受けるためにね。
白堂家の大庭園の魔物にもずいぶんと慣れた。館の主人であるシロとずっと一緒に訪れてるから、魔物の半分くらいは僕を襲わなくなったし、仮に襲われたとしても対処法を身につけた。
マンティコアは縄張り意識が強いらしく、庭園を流れる小川を越えれば追ってこない。スライムは水たまりに擬体しているから踏み入れなければ済む話だし、キマイラは知能が高いらしく、シロと行動する僕を敵と認識しなくなった。いまじゃ頭を撫でると喉を鳴らされるくらい懐いている。
だから必然的に、この白堂邸で最も危険な生物は人間──すなわち、シロの父親ということになる。
文太郎「おっかえりぃ~、マ~イスウィ~ト!」
玄関から出迎え、両手を広げてシロを抱きしめようとする文太郎氏をするりと躱し、シロは無言で館にスタスタと入っていく。
両手を空振らせた文太郎氏と僕の目線が合った。だらしなく垂れ下がっていたその目尻が、みるみるうちに吊り上がる。
文太郎「……と、娘に集るゴミ虫ゲノム。いらっしゃい、この野郎」
ソラ「こ、こんにちは」
白堂文太郎氏だ。
ゴミ虫ゲノムって。そのゴミ虫ゲノムを娘に使用してるっていう自覚はあるのかな。そもそも僕がゴミ虫なら、集る対象であるあなたの娘はゴミということになる。
なんてことを言うと、あとで何をされるかわからないので言わない。なぜなら文太郎氏は、自他ともに認めるマッドサイエンティストだからだ。
じゃなきゃ、遺伝子弄くって魔物なんて生み出そうって発想がわくわけがない。
文太郎「さっさとゲノムを置いて帰るがいい」
ソラ「や、今日は勉強を見てもらう予定でして……」
文太郎「今日も!? どうせ無駄なんだから放っておけばいいのに!」
ひどいことを言う。
シロが振り返ってギロリと文太郎氏を睨んだ。
シロ「おとーさん?」
文太郎「わ、わかってるよぅ」
この態度の違いよ。
僕はその場で数本、髪の毛を引っこ抜くと、文太郎氏に手渡す。
ソラ「これ、今日の分です」
生物学者でも遺伝学者でもない僕には詳しくはわからないけれど、ものすごくざっくばらんに説明すると、幼少期に即死級の交通事故に遭ってしまったシロは、猫の遺伝子を混ぜることでどうにか生き延びることができたんだ。
けれどそれから時間が経過し、シロのヒトゲノムはネコゲノムに侵食されつつあるらしい。このままでは人としての自我や、肉体そのものにも影響を及ぼす恐れがあることから、こうして定期的にヒトゲノムに書き換える必要があるんだとか。
事実、彼女には人の耳と猫の耳の両方が備わっている。尻尾もあるしね。猫耳はカチューシャで押さえ、尻尾はスカートに隠している。
ゲノム提供者は本来ならば誰のものでもよかったのだけれど、シロたっての希望により、幼少期の親友だった僕が選ばれたのだとか。
文太郎「うむ」
文太郎氏は僕の毛を素手では受け取らず、小さなチャック付きのポリ袋で受け取ると、フンと鼻を鳴らして僕に背中を向けた。
文太郎「……いつもありがとう……」
ソラ「……? いえ」
お礼を言われるとは思ってなかったから、ちょっと驚いた。
けど、文太郎氏はポリ袋の中の僕の毛を見つめながら。
文太郎「あ~あ、早くハゲればいいのに」
ソラ「……」
ぼそりと呟いたその一言に、なぜか僕は安堵した。
この人はやっぱりこうじゃないとね。狂っている方が安心できる。
階段の途中から、シロが僕を手招きをした。
シロ「ソラ、早く。今日は試験形式なんだから、答え合わせと復習する時間がなくなっちゃうよ。二科目はやるからね」
ソラ「あ、うん」
文太郎「ちっ!」
舌打ちがあからさますぎる。
僕は苦笑いをして、勉強を見てもらうためにシロの部屋のある二階へと上がっていく。
でもね。僕はこのときもう、本当はわかっていたんだと思う。なぜ文太郎氏が狂人でなければならないのか、ということを。だから彼の口から感謝の言葉を聞いたときに不安になって、文句や舌打ちが聞こえたときに逆に安堵したんだ。
“結論から言って、僕らはみんな、白堂文太郎に騙されていた。”
12月中旬。紅葉ヶ丘商店街は一日が短くなると同時に、電飾を灯す。街路樹にも、噴水にも、各店舗にも、一足先にクリスマスがやってくる。
文太郎氏にゲノムを渡す日以外は、勉強のわからない箇所は喫茶店やファストフード店で、シロに見てもらっている。
手を付けていないハンバーガーと、半分ほど飲んだカフェラテがふたつ。
広げたノートに指を這わせて、シロは深くうなずいた。
シロ「大丈夫。緊張せずに普段の力を出せたら、きっと合格できるよ」
ソラ「う、うん」
シロ「試験形式も結構やってきたし、さすがにもう慣れてきたでしょ?」
ソラ「そうだね」
ファストフード店の二階の窓からは、クリスマスムードの商店街を行き交う人々の姿が見える。日暮れは早くなって空はもう夜のようだけれど、商店街は電飾で明るい。
シロ「まだ一ヶ月あるんだから、心に余裕持とうよ! そうだ、ソラはクリスマスどうしてる?」
ソラ「クリスマス……」
毎年、特に用事はない。せいぜいケーキを買って家族と食べるくらいのもので。もうサンタクロースを待つような歳でもないからね。
シロが伺うような視線を僕に向けた。なぜか瞳孔が開いている。
シロ「もしかして、もう誰かさんとご予約済みデスカー?」
ソラ「や、たぶん勉強してる。なんで敬語?」
シロ「よ、よければ、遊び……ません……か……」
声が尻すぼみだった。
シロは顔を隠すように、手を付けていなかったハンバーガーを囓った。視線だけは僕に向けたまま。
ソラ「無理だよ」
シロ「ぅ……」
あからさまに表情が変わった。眉根が寄ってしまっている。もしもカチューシャが外れていたら、押さえつけている猫耳はふにゃっと折れているんじゃないだろうか、そんなふうに思えるくらい。
ソラ「だって勉強しなきゃ。シロと同じ学校に行きたいし」
シロ「あ、そんな理由……ね」
シロが小さく息を吐いて、表情をゆるめた。
すぐにいつもの顔に戻った。
ソラ「そんな理由って。それだけのために頑張ってきたんだから」
そのおよそ一月後には一般入試だ。これに落ちたら僕の人生は真っ暗になってしまう。
シロ「大丈夫。一日くらい平気だよ。ていうか、ソラは現時点でもう余裕で合格できるだけの学力はあるの。わたしはそれくらいのペースで叩き込んできたから」
ソラ「そう?」
シロが何度もうなずく。彼女にそう言われてると、なんとなくそうなのかなって思えてくるのが不思議だ。
シロ「息抜きは大切だよ。ね?」
ソラ「そうだね。でも、遊ぶって何して遊ぶの?」
シロ「へ?」
シロの視線が街行く人々に向けられた。僕も釣られてそちらに視線を向ける。
クリスマスの電飾に彩られた商店街を、腕組みをして歩くカップルや、腰に手を回して歩いているカップルが多い。
時間的にもう夕食の買い出しは終わっているからか、それとも季節柄なのか、やたらとカップルばかり目につく。
視線を戻すと、シロは真っ赤になってうつむいていた。
シロ「……」
ソラ「……えっ!?」
いくら鈍い僕でも、さすがにこうまであからさまだと理解くらいはできるもんで。
シロ「…………嫌……?」
ソラ「あ、や、そ……んなことない……よ?」
好意を向けられている。たぶん、きっと、おそらく。
僕はクラスじゃ目立たない。スポーツができるわけでもなく、勉強ができるわけでもなく、趣味らしい趣味もほとんどない。おもしろいことだって言えないし、特技だって思いつかない。個性のない、その他大勢にすぎない。
そんな僕を、ミステリアスで美少女で勉強ができてスポーツ万能のシロが。
無意味に声を落とす。
ソラ「あの……いつから……?」
シロ「ぅ……」
うつむく。もう真っ赤だ。秋の山くらい真っ赤だ。
たぶん、僕もだ。さっきから心臓がバクバク鳴っていて、血流が耳を通る音がうるさいくらいに聞こえる。
シロ「ずっと……」
ソラ「ずっと……?」
シロ「い、いじめっ子から、助けてもらってから、ずっと……」
ソラ「そう……だったんだ……」
僕らがまだ、六歳か七歳くらいの頃だ。
シロ「……忘れて、なかった……。引っ越し先でも……ソラのこと……。なのにソラ、わたしのこと忘れてるんだもん……」
ソラ「ご、ごめん」
シロが嬉しそうにはにかむ。
シロ「でも、思い出してくれたから。そしたらまた気持ちが盛り上がってきちゃって」
ソラ「そっか。あは、あはは」
いや、どうにか思い出せてよかった。心の底からそう思った。
シロ「ふふ。あ、えっと、返事とか、いつでもいいから」
うなずいた。でも、僕の気持ちはとっくに決まっていたから。
ソラ「高校生活も一緒に楽しもうね、シロ」
そう言うと、シロは花が咲いたように笑ってくれた。
シロ「うん! あ~でも、遊ぶって言ったって、変なことじゃなくって、お散歩したり、ショッピングしたりのことだからね?」
ソラ「さすがにわかってますよっ!?」
僕らは笑い合う。
その日の帰り道。僕らは初めて、分かれ道まで手を繋いで歩いた。白い手袋を取って繋いでくれた手は、陽だまりのように暖かかった。ドキドキして、手汗とかかいてないかなーなんて余計なことを考えてしまったりして。
分かれ道で手を振ったあとも嬉しくて、家に帰ってからもテンションは下がらず、僕は家族から「何か変わったクスリでもやってないか」と怪しまれたくらいだ。
これはもう絶対に合格しなきゃいけないな。
そんなことを考えながら、僕は自室の机で参考書を開いた。
付き合うみたいなことになったけれど、学校ではシロはこれまで通りだった。僕と真崎と奈々那以外にはやっぱり人見知りで、学内で手を繋いだりはしない。
手を繋ぐのは、帰り道。いつも学生の姿が見えなくなってからだ。
友達は少なめ。美少女で勉強もできてスポーツも万能なシロは、定期的に男子からアプローチを受けているみたいではあったけれど、それ以外はクラスメイトも彼女の人見知りを思いやってのことか、転入したての頃のように雑に話しかけたりはしなくなった。
それでも、僕らといるときのシロは、いつも楽しそうだった。
その日が訪れるまでは──。
切っ掛けは何気ないことだった。
僕と真崎とシロ、そしてシロに懐いた後輩の奈々那が、校庭で持ち寄った昼食を食べていたときのことだ。
真崎と僕は購買からサンドウィッチを、シロと奈々那は手作り弁当を持ってきた。僕らは互いに分け合って、全種類を満喫する。
奈々那「わー、シロ先輩の唐揚げおいしい! 味しみてるし食感の弾力が癖になりそうです!」
シロ「へへー。自分で作ったんだよ。弾力の秘密はねー、コカト──じゃなかった。地鶏だからだね。地面でのびのび育った鶏」
奈々那「へ~!」
んん? いまコカトリスって言いかけてなかった?
大庭園の魔物使ってたりしない?
地面で育ってるから地鶏扱いなの?
奈々那「それに比べて、真崎先輩とソラ先輩はまた購買パンですか~」
真崎「しゃあねえだろ。俺ん家はいつもテキトー派なんだ。栄養取れてりゃそれでよしってな」
ソラ「うちは共働きだから、朝は忙しいんだ。まあ、早起きすれば自分で作れるんだけど、やっぱり眠いし」
シロ「勉強、あんまり夜遅くまでしてちゃダメだよ。受験日に体調崩した~なんてことになったら、どうしようもないんだからね」
シロが僕のサンドウィッチをひとつ手に取って口に運ぶ。僕のサンドウィッチのケースに、コカトリスっぽい唐揚げを置きながら。
ソラ「うん。気をつける」
僕はコカトリスっぽい唐揚げを摘まんで囓る。確かに弾力がすごい。讃岐うどんみたいに歯を押し広げてくる。でも、冷めているのに噛むほどに肉汁がじゅわっと溢れて、とてもおいしい。下味のショウガ醤油も利いている。隠し味はすりおろしリンゴかな。
ソラ「うまっ」
シロ「えっへっへ。いつでも食べさせたげるよ」
あの大庭園にはそんなにいっぱいコカトリスがいるのだろうか。もしくは、やっぱりただの地鶏だったりして。そう願いたいね。
シロが奈々那から分けてもらった卵焼きを食べる。
シロ「ん~! 奈々那の卵焼きもおいしいよ! お出汁と……隠し味はマヨネーズ?」
奈々那「あ~、あはは……。それ、実はわたしじゃなくて、お母さんが作ったやつなんです。だから何が入ってるかわかんなくって。でも、マヨネーズであってると思いますよ。たまに紅ショウガ入りとかも作ってくれるんですが、そっちもまたおいしく……て──?」
僕はシロを見て息を呑んだ。奈々那もだ。言葉を失ってる。
ソラ「シロ?」
シロ「……おいしいな……」
シロは卵焼きを食べながら、ぽろぽろ涙をこぼしていた。真崎も奈々那も、ぽか~んとしか顔をしている。
実のところハロウィンでの一件以降、こういうことが増えたんだ。
道行く母娘連れに視線を向けているところを、よく見るようになった。そのたびに彼女は顔を隠すように伏せる。きっと堪えていたんだと思う。
シロには、五歳以前の記憶の中にしか、母はいない。甘えたい盛りのときに、去ってしまったのだから。
シロは制服の袖で慌てて目元を擦った。
シロ「目に何か入ったぁ~」
奈々那「ええ。擦っちゃだめ。洗ってきた方がいいですよ」
シロ「うん、そうする」
真崎「ソラ、ついてってやれよ」
シロ「いいよいいよ。片目は開けられるから見えるしー」
そう言って、シロは席を立った。
わずか数分で帰ってきたときには、もういつもの彼女に戻っていた。
やはり逢いたいのだろうと、僕は思う。
シロは僕に勉強を教えてくれた。
僕はシロのために、いま何ができるだろうか。
週に二度。僕はシロに勉強を見てもらうため、学校帰りに白堂家を訪れる。
いつものように文太郎氏にネチネチいびられながら髪の毛を渡し、試験形式での勉強を終えて帰るとき、僕はトイレを借りる名目で、リビングで書類を広げていた文太郎氏のもとを訪れた。
彼は熱中しているのか、僕が背後に立ったことにも気づいていないようだ。
後ろから肩越しに覗き込むと、英語で書かれた論文のコピーのようだった。一瞬見えたタイトルの一部は「gene」という文字だった。
遺伝子学の論文だろうか。
普段からは考えられないほどの真剣な表情で眺めている。視線を走らせ、読み終えたものは右手側に重ね、左手側からまた一枚取る。
こうして見ると、本当に学者のように見えてくるから不思議だ。
そこまで考えたとき、文太郎氏が唐突に論文のプリントアウトを隠すように裏返して、僕を振り返った。
文太郎「ほう、足音を忍ばせて、首でも絞めにきたのか? だが、容易く取れる首だとは思わんことだ。なぜなら私はこんなときのために、このソファの隙間にいつもヌンチャクを忍ばせているのだからなァ」
ソラ「どういう発想ですか」
文太郎「『ゲッヘッヘ! こいつさえいなくなれば、超キャワイイあの娘はなんでも俺様の言いなりだ。むへへへへ』とかじゃないのかね」
ゲスい……。
けれど文太郎氏は疲れたように指先で眉間を揉んで、ソファに背中を預けた。首を背後に倒して、ソファの後ろに立つ僕を見上げる。
一瞬視線を揺らしたのは、シロがいないことを確かめるためだろうか。しかし見つからなかったのか、僕に言葉を促してきた。
文太郎「で? 用件をさっさと抜かしたまえ」
ソラ「あ、ええ。あの、不躾な質問で申し訳なく思うのですが、シロのお母さんの居場所は知りませんか?」
文太郎氏の頬がぴくりと引き攣る。そうして数秒後、不機嫌な声で吐き捨てるように言った。
文太郎「それはほんとに不躾だね。余所様の家庭事情に首を突っ込むとは。昨今のガキはなってないねえ」
ソラ「そんな大仰なつもりじゃなくて、その、一目だけでも逢わせてあげられないかなって、思っただけなんです」
文太郎氏が疲れたようなため息をつく。
文太郎「余計なお世話だ。うちにはうちの事情がある」
その言葉にムッときた僕は、文太郎氏を睨んだ。
ソラ「余計かどうかは僕じゃなくてシロが決めることでは?」
僕は早口に、今日学校の昼休みであったことや、ハロウィンの日に起こったことを掻い摘まんで話した。
文太郎氏はその間も疲れたように指先で眉間を揉みながら聞いてくれた……けれど。すべてを話し終えたとき、こう言ったんだ。
ソラ「シロは寂しがってます」
文太郎「……あのね、例えそうだとしても、私が居場所を知っていると思うかね? 彩名──ああ、妻の名だが、彼女が出ていったのは、私がこの遺伝子研究をやめられなかったからだよ? そんなやつに新しい住所なんて教えてくれるわけないじゃ~ん? 知ってたら私、押しかけてるもん! 捨てないでぇぇぇ~~ってね?」
だめだ、この人……。
ヘラヘラ笑って楽しそうに言う、そのあまりの無責任さに腹が立つ。
文太郎「だ~ってやめらんないよ、魔物作り! いつかこの日本を私の魔物たちで──」
ソラ「あなたは──」
シロ「やめて、ソラ!」
シロの声が飛んだ。
視線を向けると、リビングの入り口からシロが覗いていたんだ。それに気づいた瞬間、文太郎氏が苦虫をかみつぶしたような顔をした。
シロ「もういいよ。そんな嘘つかなくて。そうだよね、お父さん」
文太郎「……嘘? なぁ~にを言っているんだい、マイスウィート! 私の生ゴミ錬金システムは世界をひっくり返すほどの大発明なのであるからして、たとえ愛するワイフに愛想をつかされようとも、この研究を真摯に続けることこそが世界の遺産に繋が──」
シロ「だったらどうして、お母さんはわたしを引き取らなかったの? この国じゃ、親権ってよほどのことがない限り、母親のものになるんだよね?」
文太郎「……」
文太郎氏の顔が青ざめる。
背もたれから身を起こし、身体をねじってシロを振り返って。
文太郎「シロ……ちゃん……? それはね……」
だが、文太郎氏から続く言葉はない。
僕はわけがわからなくなって、視線をふたりの間で行き来させた。
シロ「ねえ、ソラ! 知りたければ教えてあげるよ! お母さんがわたしを捨てて出ていったのは、わたしがもう自分の娘じゃなくって、半分猫の魔物になったからだよ! もうわたしのことを愛せなくなっちゃったからなんだよ!」
ソラ「──!」
シロ「わたしがお母さんにとって、そこらを歩いてる魔物と同じ生き物でしかなくなっちゃったからだよ!」
シロは目に涙をいっぱい溜めて、上擦った声でぽつりとつぶやく。
シロ「……わかってたよ、そんなこと……。……こそこそ嗅ぎまわらないでよ……」
そうだ。日本じゃ親権は、たとえ有責配偶者であっても母親側に移ることが多い。なのにシロは、自称有責配偶者であるはずの父親と暮らしている。あり得ないんだ。母親が娘を拒絶しない限りは、こんなことにはならない。
いまさら気づくなんて。
僕はバカだ。この話題は、踏んではならない地雷だった。救うつもりで、とんでもない傷を彼女の心に負わせてしまった。
ソラ「シロ……」
うつむいたシロから、声が漏れる。
シロ「ごめん。今日はもう帰って……」
それだけを言い残して、彼女は自身の部屋に駆け戻っていった。
文太郎氏が肩を落として、片手で額を押さえる。長い、長い、ため息をついて。
文太郎「余計なことをしてくれたね、ソラくん。シロをイジメから救ってくれた子だから近づいてもいいだろうと思っていたが、どうやら私の判断ミスだったようだ」
ソラ「……」
文太郎「こうなることを恐れていたから、何年も狂人のフリをしていたのに。責められるべき最低な人間は、私だけでよかったんだよ」
文太郎氏が首を左右に振った。
文太郎「いや、恨み言を言う筋合いはないな。キミが悪いわけでもない。先ほどの行動は、少々無神経ではあったがね」
ソファから立ち上がる。
文太郎「さて、送ろうか。庭園の魔物は私を襲わない。一緒に歩けば安全だ」
その日以来、シロは学校に来なくなった。
先生や真崎や奈々那から理由を尋ねられたけれど、これ以上この話題で彼女を傷つけたくなかった僕は、もう何もこたえることができなかった。
心には、ずっしりと重い鉛色の暗雲が立ち籠め始めていた。見上げる空は、こんなにも青いのに。
週に二度の家庭教師兼ゲノム提供の日に白堂邸を訪れたけれど、門前まで出てくれるのは文太郎氏だけで、シロはカーテンを引いた部屋から一度も出てくれることはなかった。
髪の毛だけを渡そうとしたけれど、それも文太郎氏が首を左右に振って断ってきた。シロが非協力的になってしまって、治療自体できていないのだとか。
一週間後、訪れた白堂邸で文太郎氏からこう告げられた。
文太郎「シロから治療を受ける条件を提示された。この街から引っ越したいそうだ。私にはもうどうすることもできん。年末に向けて準備を進めることにしたよ」
冷や水を浴びせられるような言葉だった。
けれどもう、僕にはどうすることもできない。せっかくなれた恋人の距離から、他人未満の距離まで一気に遠ざかってしまった。
流れ続けるクリスマスミュージックは耳に痛く、煌びやかな電飾は目に痛い。真崎や奈々那と話していても、あまり会話が頭に入ってこなくなった。シロに関するもの以外は。
どうやら僕は、思っていた以上にシロのことを好きになっていたらしい。
ずっと上の空だった。勉強も手につかなくなった。
昼休み。パンを食べる食欲もなく、自販機で買ったコーンポタージュスープを啜る。真崎と奈々那が会話をしているけれど、なんの話をしているのかさえわからない。
ただ冷え切った身体に、コンポタは温かい。味はわからないけれど。
真崎「ソラ?」
ソラ「ん?」
ぼんやりとグラウンドの方に向けていた視線を、真崎に向けた。
ソラ「呼んだ?」
真崎「何度もな」
奈々那が心配そうに僕を見ている。真崎は苦笑してるけど。
真崎「おまえさ、白堂とケンカでもしたんか? あいつ、ここんとこ学校休んでるし」
胸に来る言葉だった。
僕は重い口を開く。
ソラ「……僕が、悪いんだ……」
奈々那「もしかして浮気しちゃったとか?」
真崎「何言ってんだ? そもそもこいつら付き合ってねえだろ?」
奈々那「ええ? 気づいてなかったんですか!? 真崎先輩って、ほんっっと鈍いなぁ~」
真崎「はっ!? すんげえ鋭えっつーの! 俺の直感はエッジの効いたナイフだっつーの! 刺すぞ、刺しちゃうぞ!」
奈々那「あははははっ。でもソラ先輩。シロさん、別に入院したとかじゃないんですよね?」
ソラ「うん」
僕は一拍おいてから、ため息交じりにこたえた。
ソラ「引っ越すんだって。今月の下旬には、もう」
真崎「そうなんか。ほんとに付き合ってたかは知らねえけど、少なくとも俺らが知らねえようなそういう白堂家の事情を教えられてるってことは、白堂にとってソラは特別だったってことだな」
奈々那「絶対、付き合ってましたって! だって仲良すぎでしょ! どうなんですっ?」
教えられたのも、文太郎氏の口からだ。僕とシロの関係は、他人未満になってしまったのだから。
僕は愛想笑いで力なくつぶやく。
ソラ「絶交されたよ」
真崎「まじで? さっきも自分が悪いって言ってたけど、なんかあったんか? エロいことをしようとしたとか?」
奈々那「ななななんですって!? くく、詳しく!」
めちゃくちゃ食いついてくるな……。
ソラ「詳しくは話せないよ。でも、僕が無神経に踏み込みすぎたんだ」
奈々那「む、無神経に、そんなことしようとしたんですか!?」
ソラ「うん」
真崎「なあ、話がこじれてねえ?」
奈々那「こじれた仲! 爛れてますね! わたしたち、まだ中学生なのに!?」
ソラ「うん……」
サンドウィッチを口にねじ込んだ真崎が、頬の膨らみをミルクで流し込む。
真崎「あいつ、ケンカしたまま引っ越しするんか?」
ソラ「うん……」
真崎「おまえが悪いって?」
ソラ「うん……」
次のサンドウィッチに手を伸ばして、けれどもつかまず、真崎は視線を僕へと向けた。
真崎「あいつの抱えるなんかの事情に、無神経に踏み込んだからか?」
ソラ「うん……」
また少し胸が痛んだ。
涙が出そうだ。でも恥ずかしいから堪える。
真崎「ん~……。そらどうかなあ。おまえそれ、あいつのためになると思ってやったんじゃねえの?」
ソラ「……なんでそんなことがわかるんだ?」
真崎「俺の直感がナイフのように尖ってっからだ」
奈々那「まだ言っている……。背中に図太い神経一本しか通ってない人が……」
真崎「その言い方よ。さすがに傷つくぞ」
奈々那「大丈夫。傷ついてもどうせ明日には忘れてるじゃないですかぁ。あははー」
奈々那は真崎に辛辣だ。でも、そこに好意が見え隠れしているように感じられるのは僕だけじゃないはずだ。むしろ真崎本人以外なら、誰にだってそう見えてるんじゃないだろうか。
真崎「それってさ、中途半端に踏み込んだからダメなんじゃねえの?」
ソラ「……?」
真崎「おまえがやろうとしたことは、白堂のためになることだったんだろ? なら、やってやれよ。どうせ引っ越すんだ、嫌われたって別にいいじゃねえか」
真崎を見る奈々那のジト目がえぐい。
奈々那「真崎先輩のそういう無神経なとこ、心の底からすごいと思います」
真崎「だっろー!」
奈々那「褒めてなぁい……」
真崎「まあとにかくだ。おまえが白堂に対して、軽いノリでちょっかい出すようなやつじゃねえことは、俺がよく知ってる。あいつを思いやっての行動なら途中でやめずに、最後までやってから判断すりゃあいいんじゃねえの。過程なんざどうだっていいんだ。頑張ったねで参加賞をもらえんのは、小学生までだからな。結局は結果がすべてだ」
奈々那「スポーツバカ……」
真崎「そうだが?」
上の空だった会話なのに、なぜか真崎の言葉だけがストンと僕の胸に落ちた。
シロが流した涙は本物だった。
母親に逢いたい。けれど再び拒絶されるのが怖い。一度拒絶された過去があるから。その矛盾する気持ちに蓋をするために、僕は彼女から縁を切られた。
だけど、思いついたんだ。縁を切られたいまこの瞬間にしか、確かめられないことがあるって。
真崎がサンドウィッチを手に取って、ぼーっとしていた僕の口にねじ込んだ。
ソラ「んむ!?」
マヨネーズたっぷりの卵サンドだ。味は、う~ん、くどい。
真崎「ほれ、食ったら行ってこいや。どうせこの時期はもう自習しかねえからな。先生にゃ腹壊して、ケツを押さえながら走って帰ったって言っといてやるよ」
ソラ「んぐ。んん。……ありがとう。でももうちょっとマシな言い訳で頼む。行ってくる」
奈々那「え、え? どこに? シロさんとこ? よ、よくわかんないけど、がんばれー、先輩!」
ソラ「うん!」
昼休みの最中。僕は立ち上がり、教室の荷物も取らずに、中庭から直接校門へと向けて走り出した。
シロのために何ができるのか。僕は何をすべきだったのか。真崎の言葉でようやくわかったんだ。
シロが隣にいたら、決してできないこと。彼女から絶縁されてしまった、いまこの瞬間にしかできないことがある。
それは八年前、シロが交通事故に遭ったあと、どうして白堂彩名が彼女のもとを去ってしまったのか、その真相を確かめることだ。
途中でやめない。シロが怖くてできなかったことは、僕が最後までやりきる。
その結末が、シロや文太郎氏の考えるとおり、魔物となってしまった娘を愛せなくなったという悲しいものであるならば、僕もこの真実に蓋をしてシロに別れを告げよう。
でも、そうじゃないのであれば。もしも何らかの事情があってのことなら。
僕は、白堂彩名に会いに行く。